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お天気豆知識(2024年10月23日(水))

甘柿と渋柿
甘柿と渋柿

10月も半ばを過ぎ、日ごとに秋が深まってきています。これからの季節においしいものと言えば柿でしょう。
柿は生で食べるものと干柿にして食べるものがあり、生で食べる柿は甘柿、干柿用は渋柿を使います。一見違いはなさそうですが、包丁で切ってみると、2つに大きな違いがあることがわかります。
甘柿は果実に黒いはん点がありますが、渋柿にはありません。この黒いはん点こそ、柿が甘いか渋いかを決める「タンニン」と呼ばれるものです。
甘柿、渋柿ともに幼果期には渋みがありますが、甘柿は果実が成熟する過程でタンニンの性質が水溶性から不溶性に変わります。
人間の舌は、だ液に溶けた物質の味を感じるしくみになっていて、水溶性のタンニンはだ液に溶けるため食べたときに渋さを感じます。
しかし、不溶性のタンニンはだ液に溶けないので渋さを感じないのです。つまり、タンニンが水溶性か不溶性かによって渋柿か甘柿かが決まるのです。
甘柿に見られる黒いはん点(ゴマと呼ばれる)は、不溶性に変わったタンニンが酸化したために黒くなったもので、甘柿のしるしといえるのです。

渋柿から甘柿へ
渋柿から甘柿へ

渋柿はそのままだと渋くてとても食べることはできませんが、干柿にすることでおいしく食べることができます。では、どのようにして渋柿がおいしい干柿に変わっていくのでしょうか。
干柿を作るには、まず、渋柿の皮をむき軒下などにぶらさげます。果物は表皮を通して外呼吸、その内部で内呼吸をしていますが、皮をむいて干すことによって表面が乾燥して固くなり、外呼吸ができなくなります。
すると、内呼吸が活発となった渋柿は、内部で化学反応を起こし、微量のアセトアルデヒドを発生させます。
このアセトアルデヒドの作用で、渋みのもとであるタンニンは水溶性から不溶性に変化し、結果、渋みがとれるのです。また、渋柿の水分がなくなり乾燥することで、柿の中の糖分が凝縮されて甘みも濃くなります。
つまり、干柿は水溶性のタンニンが不溶性になることで渋みが無くなり、さらに糖分が凝縮されることによって甘い食べ物となるのです。

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バナナ2025年04月27日(日)
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お天気豆知識

バナナ

バナナ

スーパーや八百屋でよく目にする果物、バナナ。バナナの高さは1.5から10メートルにも達しますが、実は木ではなく、巨大な草なのです。バナナの栽培は紀元前5000年から1万年ごろに始まったとされ、人間が最初に栽培した果物ともいわれています。バナナがよく生育するのは、赤道をはさんで南北30度以内の熱帯・亜熱帯地域で、年間降水量2500ミリ、平均気温27度の高温多湿な気候の「バナナベルト地帯」とよばれるところで主に栽培されています。私たちが口にするバナナのほとんどはフィリピンやエクアドル、台湾などの輸入品です。日本に輸入されるバナナは青いうちに収穫されますが、その理由は黄色くなるまで待つと甘みや香りが失われ、すぐに傷んでしまうからです。もう一つの理由として、熟したバナナには日本に生息していない害虫が寄生する恐れがあるため、植物防疫吠しょくぶつぼうえきほう)で黄色いバナナの輸入が禁止されているのです。ちなみに、買ったばかりのバナナは黄色ですが、熟すにつれ黒い班点が皮に現れます。これは「シュガースポット」とよばれ、甘みが増している証拠で、食べごろを教えてくれるサインなのです。身近なのに意外と知らないバナナの魅力を改めて見直してみませんか。

メイストーム

メイストーム

5月は高気圧に覆われて晴れる日が多く、1年で最も過ごしやすい時期です。季節は風光る春から風薫る初夏へと移り変わり、すがすがしい陽気に包まれて、植物には日々緑の濃さが加わる頃でもあります。しかし一方で、5月は黄海やその近辺で発生した低気圧が日本海を急速に発達しながら進み、嵐のように猛威をふるうことがあります。このように発達した低気圧は、それまで安定していた天候を急変させて思わぬ災害をもたらすこともあり、メイストームと呼ばれています。1954(昭和29)年5月8日に黄海で発生した低気圧は、翌日9日の朝に日本海西部で急激に発達したのち千島列島方面へ進みました。通常の2倍の時速70キロから80キロの速さで通過したため、その速さのために逃げ場を失った船舶の多くが沈没、流失し、死者、行方不明者361人を出す大惨事となったのです。のちにこのときの低気圧の研究が詳しく解析され、5月の嵐のことを表す言葉として「メイストーム」が生まれたのです。

江戸後期の地図作り

江戸後期の地図作り

大型連休をひかえ、旅行の計画を立てている方も多いのではないでしょうか。旅行に出かける際の持ち物の中で、欠かせないのはやはりその土地の地図ですね。初めて日本の正確な地図を作った人をご存じでしょうか。その人は江戸時代後期に活躍した伊能忠敬(いのうただたか)です。彼の測量の方法は、当時は歩幅をつかって距離を測る歩測でした。また、夜は天体観測を行って緯度を測定しました。北極星の高度がその場所の緯度と同じことを利用して現在地の緯度を調べていたのです。ただ一方で、緯度と同様に地図作りには欠かせない経度の測定はやっかいだったようです。経度の測定は、江戸、大阪と観測地の3地点で同時に日食や月食の始まりと終わりの時間をはかり、その差から求めようとするものでした。観測期間中に日食は4回、月食は9回ありましたが、どこかが悪天候になると測定はできません。なかなかうまくいかず、経度の測定は実質的には失敗だったようです。そのため経度は天体観測ではなく別の方法で計算から求められました。伊能忠敬は日本全国を歩き回り測量を重ねましたが、旅に出て18年後に病死してしまいます。その後は、弟子たちが引き継いで1821年に、のちに伊能図と呼ばれる「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」を完成させ、幕府に提出したのです。