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お天気豆知識(2025年02月02日(日))

立春
立春

2025年の2月3日は二十四節気のひとつ、立春です。
およそ1ヶ月続いた「寒」も明け、寒さが次第に緩んで暖かくなっていくころで、暦の上ではこの日から立夏の前日(2025年の立夏は5月5日)までが春になります。
立春を過ぎて春めいてきても、寒さが再びぶり返すことがあります。立春以降の寒さは「余寒(よかん)」と呼ばれ、立秋過ぎの暑さを表す「残暑」に対応しています。
季節は寒さと暖かさが一進一退を繰り返しながら進んでいくものだといえるでしょう。
なお、二十四節気は古代中国の黄河流域の季節に基づいていて、日本の季節とは多少のずれがあります。そのため暦の上では春になっても、気温などで春を実感できるようになるのはもう少し先になります。

四季の基準
四季の基準

冬の寒さが続いていますが、暦の上では立春(2025年は2月3日)から早くも春を迎えます。
春夏秋冬を区切る基準には「暦」、「気象学」、「天文学」があり、それぞれで異なっています。
春とは、暦では立春から始まり、立夏(2025年は5月5日)の前日までを指します。
また、気象学上は3月、4月、5月の3か月間が春で、多くの方はこの期間を「春」として認識しているのではないでしょうか。
そのほか、天文学では春分(2025年は3月20日)から夏至(2025年は6月21日)までを春としています。季節の移ろいに対する認識には色々あるのですね。

過去のお天気豆知識

こいのぼり2026年04月29日(水)
潮干狩りと季節2026年04月28日(火)
江戸後期の地図作り2026年04月27日(月)
春キャンプの楽しみ2026年04月26日(日)
太陽からの光の種類2026年04月25日(土)
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各地の天気

お天気豆知識

こいのぼり

こいのぼり

4月下旬になり、あちらこちらにこいのぼりを見ることが多くなってきましたね。日本では5月5日の端午の節句にこいのぼりを揚げる風習があります。こいのぼりの始まりは江戸時代で、町民文化の中から生まれた、伝統的な節句飾りの一つです。魚のコイは、きれいな水の中ではもちろんのこと、池や沼といった厳しい環境でも生息することができる魚です。このため、コイは生命力が強く縁起が良いものとされてきました。また中国では、コイが急流を遡り竜門という滝を登りきると竜になる、という登竜門伝説が伝えられています。この登竜門伝説にちなんで、お子さんの健やかな成長を祝い、どんな困難にも負けずに立派に育ってほしいという、願いを込めたものが「こいのぼり」の風習なのです。

潮干狩りと季節

潮干狩りと季節

春は潮干狩りの季節ですね。しかし、貝自体は春だけでなく一年を通して採ることができます。ではなぜ潮干狩りには春が良いのでしょうか。その理由の一つは、春は昼間に大きく潮が引くことです。満潮と干潮は通常1日に2回ありますが、干潮同士でも潮位は異なります。そのうち大きく引く方が昼間に来るのです。一方、夏も潮干狩りはできますが、暑さで貝の鮮度が落ちやすくなるという懸念があります。採った貝の取り扱いには十分な注意が必要となるでしょう。次に、秋も潮干狩りにはあまり向きません。これは春とは逆に、夜に大きく潮が引くためです。夜の海は視界が悪く、危険を伴います。そして冬は気温と海水温が下がり、手足を水に浸けた作業はつらくなってくる時期なので、潮干狩りには適さないのです。以上のことから、一年の中では春が潮干狩りを楽しむのに最も適した季節といえます。この時期に、是非潮干狩りに出かけてみてはいかがでしょうか。

江戸後期の地図作り

江戸後期の地図作り

大型連休をひかえ、旅行の計画を立てている方も多いのではないでしょうか。旅行に出かける際の持ち物の中で、欠かせないのはやはりその土地の地図ですね。初めて日本の正確な地図を作った人をご存じでしょうか。その人は江戸時代後期に活躍した伊能忠敬(いのうただたか)です。彼の測量の方法は、当時は主流だった歩幅で距離を測る歩測でした。また、夜は天体観測を行って緯度を測定しました。北極星の高度がその場所の緯度と等しいことを利用して現在地の緯度を調べていたのです。ただ一方で、緯度と同様に地図作りには欠かせない経度の測定は大変困難だったようです。経度の測定は、江戸、大阪と観測地の3地点で同時に日食や月食の始まりと終わりの時間をはかり、その差から求めようとするものでした。観測期間中に日食は4回、月食は9回ありましたが、どこかが悪天候になると測定はできません。なかなかうまくいかず、経度の測定で高い精度を出すのは難しかったようです。そのため経度は天体観測ではなく、主に導線法などの計算から求められました。伊能忠敬は日本全国を歩き回り測量を重ねましたが、旅に出て18年後に病没してしまいます。その後は、弟子たちが引き継いで1821年に、のちに伊能図と呼ばれる「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」を完成させ、幕府に提出したのです。